“いずれの作家にもいえることだが、自分のテーマを書きつくしてしまうと、あとはただの風俗描写のくり返しになってしまった(風俗小説は英語でnovel of manners。マンネリズムにおちいりやすいのは当然)。石原慎太郎はけっきょく作家業にあきて政治家になったが、村上春樹はいまだに中身のない作品を書き続けている。そこにえがかれるのは、もはや風俗とすらいえないものに成り果てているにもかかわらず。”
“ワクワクすることが見つからない人には、
ひとつだけアドバイスがある。
「絶対にやりたくないことからは逃げる」
と心に決めること。
これは逆説でもあって、
「絶対に」が付かない程度の、
文句を言いながらやれることなら、
逃げずにやり遂げろということ。
そうしているうちにワクワクが見つかるから。”

山頂近くの現場で『死亡確認』を行わない意味 - Togetterまとめ

階級はなんのためにあたえてあるのか? 命令違反するときを判断できる者にあたえられているのだ。規則どおり、命令どおりするだけなら、貴様は将校ではなく、兵士でよい」とウイリアム皇太子。

これ以来、軍隊の階級の意義は、この考え方が世界の常識となっている。

戦術と指揮 命令の与え方・集団の動かし方 (PHP文庫) - 電子書籍 名言まとめ

“言論の自由を巡って、国際社会からも批判の声が上がっていることについては、「わが国では、言論の自由がどの国よりも保証されている。この問題を言論の自由と関連させるのは不適切だ」と反論しました。
今回の事態を巡っては、ジャーナリストの国際団体「国境なき記者団」が起訴の判断を非難しているほか、アメリカ政府も懸念を示しており、コラムに対する反発が根強い韓国国内でも国際世論の悪化に対する懸念が広がっています。”
“「タチの悪い言論」とは、はじめから自分のイデオロギー的な好みが決まっているのに、それを読者に刷り込むために何やら客観的に見える事実や証拠の断片とおぼしきものを寄せ集めてきたり、怪しげな権威筋を借りてきて説得力があるかのように装ってみせたり、いかにも意味ありげなひねくった文体を意識的にとる、そういう言論です。しかも、肝心のところでその言論のもとになっている基礎認識が間違っているのに、そのことを自覚していない。だからじつは自分の好みのイデオロギーを押しつけているだけなのです。
この場合、当の書き手は、「客観性」や「権威性」や「高級めかした文体」に自分をゆだねていますから、言葉を発表するということに伴う決断と責任を無限に回避していられます。こういう巧妙さ、狡猾さは、日本の知識人の一部に見られるお家芸で、彼らは、戦後の「言論の自由」の恩恵に長い間甘えてきたために、言論がもつべき公共的な責任意識をすっかり忘れてしまったのでしょう。
これから取り上げる内田樹氏の論文「アメリカからの『警告のシグナル』」(『新潮45』2013年8月号特集・私の憲法論)は、まさにその典型とも評すべき論文です。
内田氏は、いまかなりの売れっ子評論家です。私はそれほど深く読み込んだことがないのですが、ホームページから立ち上げた処女作『ためらいの倫理学』(冬弓舎・2001年)以来、大文字の「正義」の胡散臭さをたえず相対化してみせる繊細で柔軟な思考スタイルを売りにしてきたことは間違いないでしょう。フェミニズムやポストモダニズム以後の若い世代のインテリが、左右を問わず既成のイデオロギーに対して感じてきた違和感にうまくヒットしたのだと言えます。つまらぬ理想をけっして掲げず、自前の感性を大事にしながら好き嫌いをきちんと言う、というところが受けたのでしょうね。成熟社会の文化的特徴とも言えるでしょう。
たとえば、セックスワーク(売春)について書かれた次の論文などは、フェミニズムの論理破綻を鋭くかつ緻密に指摘してなかなか読ませます(2003年)。blogos.com/article/63222/
しかし、最終的に私は、この人の考え方に賛同できません。まさに「ドミナント(支配的)な思考制度」に対して、それがただドミナントであるからというだけの理由で、自分の個人的な嫌悪感を論述の基本的なモチベーションにしており、そこにのみ自論のアイデンティティを置いてるとしか思えないからです。ちなみに、ここでは触れませんが、セックスワーク(売春)については、少し前に私自身も書いていますので、興味のある方は、読み比べてみてください(『なぜ人を殺してはいけないのか』洋泉社・2000年)。
私はじつは、どうもこの人は、硬直した思考の隙間をねらって撃つというテクニックに長けてはいるが、本人が根のところで持っている政治観、社会観、倫理観は意外に単純で、政治や経済に関して不勉強な日本の文学者などにありがちな、ただの反体制、反国家的な心情主義にすぎないのではないか、という疑いを抱いてきました。でも語り口が洗練されていて巧妙で、いいことを言っているところもあり、なかなかシッポをつかませないな、と感じていたのです。
最終的に特定のイデオロギーにおもねず、個人の好き嫌いをはっきりさせて物事を判断するというのは、「言論の自由」をよく生かしていることになりますし、論じる対象によっては、それがいい持ち味を出すということも大いにあります。しかし、政治言論は、それでは少々困るのです。この領域は、主観的には自分の個人的な判断だと思っていることが、じつは特定のイデオロギー(ドミナントな価値観)にまったく籠絡されているにすぎないということが最も起こりやすい領域だからです。”